(松陰神社 提供:写真AC)

JR西日本の東萩駅から月見川まで南下し、月見川づたいに東へ進むと、松陰神社の大鳥居にたどり着きます。この大鳥居を抜けると、松下村塾の学び舎が見えてきます。

松下村塾は「九州・山口の近代化産業遺産群」として2009年に世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録されました。

初代内閣総理大臣伊藤博文は、このすぐ近所で育ち、当時、吉田松陰の叔父である久保五郎左衛門が近所の子供たちを教育していた松下村塾に通うようになりました。

この時、いつも成績を競っていたのが、吉田稔麿という同い年の塾生でした。勉学に打ち込んだ伊藤博文でしたが、吉田稔麿にはいつも適わなかったそう。

 

1857年に松下村塾を吉田松陰が引き継ぐと、塾生たちを集めて講義を行うようになります。江戸で働いていた伊藤博文も、地元に戻り松下村塾で学ぶようになりますが、入塾したばかりの伊藤博文を気にかけてくれたのが、幼馴染の吉田稔麿だったのです。

松下村塾で兵学を極めた吉田稔麿は、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と並んで「松下村塾の四天王」に名を連ねますが、四天王の中では一番年下だったことからも、とても優秀だったことがわかります。

内閣総理大臣となった伊藤博文は、あるインタビューで吉田稔麿について尋ねられました。1864年、池田屋事件で24歳という若さでこの世を去った幼馴染を伊藤博文は称賛しました。

そして伊藤博文と比べてどうか?という質問に、「何と恐れ多い。どうして比べることができようか。彼は天下の奇才であった」と答えたのでした。

果たして、初代内閣総理大臣も称賛を惜しまない松下村塾四天王「吉田稔麿」とは、どのような人物だったのでしょうか。
今回は池田屋事件で討死した松下村塾の秀才、吉田稔麿をご紹介します。

 

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生い立ちと略歴。松下村塾への入塾の経緯。


(吉田稔麿 生誕の碑 管理人撮影)

松下村塾から松陰神社を挟んだすぐ近くに「吉田稔麿生誕の碑」があります。
松下村塾のある松本村に吉田稔麿が生まれたのは1841年3月16日、長州藩でも身分の低い足軽の家でした。

足軽の身分では藩校・明倫館に入ることができず、近所の子供たちと一緒に寺子屋だった松下村塾に通いました。勉強が好きだった吉田稔麿は、いつも成績トップでした。

さらに吉田稔麿は文武両道で、宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修めました。しかし、実家が貧しかったため、12歳で江戸の長州藩邸で小者として働くことになりました。

 

ペリー来航に日本に揺れ動く中、吉田稔麿は裸足でまきを割ったり走り使いをして忙しく過ごしていました。

一方で、後の師となる吉田松陰は、佐久間象山の勧めで、江戸湾に停泊する黒船に乗り込むという前代未聞の密航を企て幕府に捕縛されました。

萩の野山獄に収容され、1856年に出所してからは叔父から松下村塾を引き継ぎました。江戸藩邸から藩庁への手紙を持って萩へ戻った吉田稔麿は、吉田松陰が主宰する松下村塾一人目の塾生である増野徳民に勧誘され、松下村塾に通うようになりました。

安政3年11月25日、「栄太(吉田稔麿)初めてくる」と吉田松陰の日記に書かれています。

松下村塾の四天王の一人となる。

(松下村塾・講義室 提供:写真AC)

松下村塾は八畳一室のこじんまりとした私塾でしたが、一時は塾生が90人にまで増えたため、増改築して対応したこともあるほどでしたが、多数の塾生の中でも吉田松陰がとくに秀才と認めた4人は「四天王」と呼ばれていました。

それが、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿です。

四天王をはじめ、吉田松陰は将来を期待する塾生に、あだ名と寸評を与えていました。目をかけていた吉田稔麿には「無逸」というあだ名を与えました。

道を逸す(はずす)ことは無い、それゆえに「無逸」と呼んでとてもかわいがっていました。

吉田松陰による吉田稔麿の寸評は、「心に秘めた強い意志の持ち主で、容易には動かされない」、また四天王の久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿を並べて「実甫(久坂)の才は縦横無尽なり、暢夫(高杉)は陽頑、無逸は陰頑であり、皆人の駕馭を受けざる高等の人物で、常にこの三人を推すべし」と言いました。

高杉晋作・吉田稔麿ともに識見はよく似ているが、高杉晋作に対して吉田稔麿が「陰」だったのは、無駄口を利かず、謹直重厚な人柄を評してのことです。

 

■吉田稔麿 の人柄を示すエピソード。

(松下村塾 提供:写真AC)

松下村塾の優等生という印象が強い吉田稔麿ですが、松下村塾に近所の不良少年3人を連れて来るという珍事件を起こしていますが、これにはわけがありました。

幼馴染でもある3人に、吉田稔麿は自宅で読み書きを教えていたそうですが、公務で江戸に行くことになったので、吉田松陰に3人の面倒を頼みに行ったというのです。「謹直重厚」な吉田稔麿の人柄がよくわかりますね。

 

■高杉晋作と山形有朋の会話。

(高杉晋作立像 提供:写真AC)

高杉晋作は、山県有朋に自分は吉田稔麿に比べてどのくらい劣っているか聞かれた時、「吉田敏麿が座敷にいるとすれば、お前は玄関番ですらないだろう。くそもみそも一緒にするとはまさにこのことだ」と笑ったそうです。

同じ四天王のひとり高杉晋作も吉田稔麿を高く評価していたんですね。

 

■吉田松陰、刑死の20日前に稔麿に残した言葉。

(牢 提供:写真AC)

増改築した松下村塾に大勢の塾生たちが集まりようになっていましたが、吉田松陰は安政の大獄を阻止するために幕府老中の暗殺を企てます。

この老中暗殺計画が幕府に漏洩してしまい、吉田松陰は投獄されます。吉田松陰は獄中から何通もの手紙を吉田稔麿に出しました。しかし、吉田稔麿から返事が来ることはありませんでした。

足軽という身分から、吉田稔麿の実家はとても貧しく、吉田松陰に連座して吉田稔麿の収入を失うことを懸念した家族から、吉田松陰との接触を反対されたことが理由でした。

 

吉田稔麿から手紙の返事がないことをとてもさみしがりながらも、「栄太の心中誠に憐れむべし」と吉田松陰はその心中を察していました。

返事を期待することができない吉田稔麿への手紙にも、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一への手紙にも、吉田稔麿を心配する記述が多くみられます。

刑死のわずか20日前、「吾れ栄太を愛する昔日の如し」という言葉を吉田松陰は残しています。

松下村塾四天王のひとり吉田稔麿は、もしかしたらもっとも吉田松陰に愛された弟子だったのかもしれません。

 

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池田屋事件で討ち死に。その辞世の句とは?

(池田屋事件の跡地は現在居酒屋になっている。筆者撮影。)

 

吉田稔麿は、松下村塾を運営する吉田松陰が逮捕され江戸へ移送されることになると、隣家の塀の穴から覗いて見送ったという逸話が残されています。

安政の大獄後は、最後の刑死者となった吉田松陰の志を継ぎ、江戸で旗本の妻木田宮に仕えた後、長州藩に戻って尊王攘夷活動に奔走します。

吉田稔麿が旗本に仕えた理由について諸説ありますが、藩命により長州藩と幕府のパイプ役として仕えていたという見方もあり、長州藩に戻ると尊王攘夷派の志士たちの間で幕府通として重用されました。

 

1863年6月、高杉晋作の提言により創設された奇兵隊に参加、被差別部落民を採用した「屠勇隊(とゆうたい)」を結成しました。

更に7月、これまでの功績が認められ、吉田稔麿は士分に取り立てられます。長州藩では足軽は士分としては扱われず、苗字帯刀も禁じられていました。

それまでは「栄太郎」と名乗っていましたが、この時に「吉田稔麿」と改名しました。

 

1864年6月5日、吉田稔麿は京都三条木屋町にある旅籠「池田屋」を訪れていました。

池田屋では長州藩・土佐藩・肥後藩を中心とした尊王攘夷派のメンバーが会合を行っていて、吉田稔麿も会合に参加するために池田屋にやって来たのです。

桂小五郎など会合参加予定者の証言によると、新選組に捕縛された同志の救出を目的に、事件当日に急遽セッティングされた会合だったそうですが、現在多くの資料では「祇園祭間近の風の強い日を狙って御所に火を放ち、中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜、松平容保ら公武合体派の主要人物を暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」という大胆なクーデター計画について話し合っていたと記載されています。

 

(提供:写真AC)

実際に池田屋での会合でどのような話し合いがなされていたのかはさだかではありませんが、八月十八日の政変後、公武合体派のクーデターによって京都を追放された尊王攘夷派の志士たちが京都に潜伏し、巻き返しを図ろうとしていたため、幕府の治安維持組織である新選組は市内警邏を強化していました。

事件当時、新選組が尊王攘夷派の支援者を捕縛したため、尊王攘夷派は急遽会合を開くことになり、新選組は尊王攘夷派の志士を一網打尽にするため探索を行います。

池田屋での会合には尊王攘夷派の中心人物である桂小五郎も参加予定でしたが、予定より早く会合場所に到着してしまったため対馬藩邸で時間を潰すことになりましたが、22時頃に尊王攘夷派の志士たちが会合していることを突き止めた新選組が池田屋を襲撃、暗闇での乱闘となります。

 

■吉田稔麿の最期(諸説あり)。

池田屋事件での吉田稔麿については、明らかになっていない部分も多くありますが、おおまかに3つの可能性が指摘されています。

(1)池田屋からからくも脱出した吉田稔麿は、長州藩邸に駆け込んで新選組の襲撃を報告し、仲間を助けるため再び池田屋へ引き返しますが、途中の加賀藩邸前で新選組、あるいは会津藩兵と遭遇して討ち死にした。

(2)池田屋から長州藩邸まで走った吉田稔麿ですが、藩邸の門を開けてもらえず門前で自決した。

(3)理由はさだかではありませんが、何らかの理由で池田屋を離れている間に新選組の御用改めが入り、仲間を助けるために池田屋に戻って討ち死にした。

池田屋事件当夜、吉田稔麿がどのような行動をとり、どのように亡くなったのかはわかりませんが、吉田稔麿は24歳という若さで尊王攘夷運動に散ったのでした。

 

■辞世の句と現代語訳。

(吉田稔麿の墓 筆者撮影)

最後に、吉田稔麿の辞世の句をご紹介します。

『むすびても 又むすびても 黒髪の みだれそめにし 世をいかにせむ』

結んでもまた結んでも、黒髪が乱れるように、乱れ始めたこの世の中をどうしたら良いだろうというこの句は、尊王攘夷の志士として乱れたこの世の中をどう変えていくべきだろうか——模索しながらも、志士としての道を進んでいく吉田稔麿の強さを感じることができます。

現代を生きる私たちも、この辞世の句を詠んで目を閉じると、日本の行く末を見据えながら、乱れた黒髪を結い直す吉田稔麿の姿が浮かんでくるかもしれません。

 

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