(吉田松陰と金子重輔像 提供:写真AC

幕末・明治に活躍した長州藩士を数多く育てた吉田松陰は、この時代のMVPともいえる存在です。わずか30年足らずの短い生涯を濃密かつ活発に走り抜けた松陰が残した遺産とはなんだったのか。詳しく見ていきましょう。

 

スポンサーリンク

 

松下村塾を設立した理由は?

(松下村塾 提供:写真AC

農家の生まれでありながら、教育熱心な父親と叔父の影響で勉強家になった松陰。暇さえあれば本を読んでいたといいます。驚くことに9歳で藩校の師範に就任し、藩主・毛利敬親を「萩に天才がいる!」と驚嘆させたほどです。

その知識欲はすさまじく、西洋を知るために九州へ行くと、今度は江戸で佐久間象山に教わり、外国船が通るからという理由で津軽海峡にまで行ってしまうアクティブさ。外国船に乗ろうとして入牢するなど、学ぶためなら手段は選ばないという勉学の鬼でした。

故郷萩の獄に移されてからも、孟子などを読み、解放後の自宅謹慎でも休まず講義をしていました。その評判に多くの門下生が集まると、松陰は叔父が開いていた松下村塾を引き継ぎ、教えを広めたのです。

松下村塾は松陰が作ったのではなく、叔父さんが作ったものだったのです。名をとどろかせていた松陰を頼って、近隣から豪華なメンバーたちが集まってくることになります。

豪華すぎる門下生たち。彼らが歴史に与えた影響。

(高杉晋作立像 提供:写真AC)

松下村塾の門下生を並べてみると、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎・・・。軍人あり、政治家あり、思想家ありと、その「きら星のごとく」と言いたいような豊富さに目を見張ります。桂小五郎は塾の門下生ではなく、松陰の直接の弟子ということになります。

もっとも、この面々が世に知られるのは後のことで、門下生時代はダイヤの原石というところでしょうか。それを磨いて輝かせたのが松陰ということになります。倒幕に功績のあった桂、久坂、高杉、吉田ら。明治の政治を担う伊藤、山縣、品川、山田ら。その明治政府に反乱した前原。多方面で活躍した弟子たちです。

松陰は塾で、登山や水泳なども教えました。日本中を駆け回った松陰ですから、「勉学には体力と経験が不可欠」と考えていたようです。しかし、松下村塾は長く続きませんでした。日米通商条約が結ばれ、その不公平に松陰は激怒。反対派を粛清した安政の大獄で、松陰も投獄されてしまうのです。

 

スポンサーリンク

 

吉田松陰の辞世の句「親思う~」を超訳

(松陰神社の鳥居 提供:写真AC)

裁きの場でも持論を訴える松陰。シラを切れないバカ正直ぶりです。「正しい意見は採用されるはずだ」という純情があったのかもしれません。

結果、松陰は死罪となります。その際、門弟たちには「自分は江戸で死ぬが、大和魂を忘れるな」という意味の句を、家族には「親思ふ、心にまさる、親心、けふのおとずれ、何ときくらん」の句を残しました。

「親の情は深いもの、この結果をどんな気持ちで聞くのか」と、智者らしくないストレートな辞世の句です。「父ちゃん母ちゃん、ごめんよ」と泣いているようではありませんか。

門弟に残したものと比べると、別人が詠んだのかと思われます。これは松陰の二面性によるものだったのかもしれません。まるで最後の最後に子供に戻ったような心の吐露で、ついつい涙を誘われます。幕末の巨星・松陰も、最期は親思いの息子に過ぎなかったのですね。

 

スポンサーリンク