吉田東洋は土佐藩の政治家です。後藤象二郎や岩崎弥太郎らを指導し、土佐を幕末の雄藩へと育てました。言わば、長州での吉田松陰のような存在。

改革を推し進めた東洋ですが、徐々に土佐の保守勢力に疎まれるようになり、憐れな最期を遂げたのです。今回は吉田東洋の業績と暗殺されるまでの生涯に迫ります。

 

スポンサーリンク

 

若くして奉行を務めるエリート。山内容堂に大抜擢される。

東洋が生まれた吉田家は、戦国時代の四国の雄・長曾我部元親にも仕えていた名家。山内一豊から三顧の礼をもって用いられたというエリートの家系。

上士ということもあり、20代の頃から藩の重職を務め、改革に着手します。病気などで職を離れていた時期もありましたが、その間も全国の学者と交際を広げ、常に見識を広めることをやめなかった勉強家でもありました。

転機になったのは1853年。山内容堂の大目付に抜擢され、容堂と二人三脚で大改革に取り掛かることになります。一癖も二癖もある容堂ともずいぶん気が合っていたようですから、コミュ力も高かったのでしょう。

 

ところが東洋、容堂と同じで酒に目がない。参勤交代で江戸居のときに、酔って旗本を殴ってしまう事件を起こします。相手は山内家の親類でしたが、旗本に暴力では罪なしにはできません。

せっかく抜擢されてからたった2年ほどでリストラされることに。旗本に怪我を負わせたとなると、さすがの容堂も庇いきれなかったようです。

リストラ後は、私塾を開設。後藤象二郎、板垣退助らを指導。その後、復職を果たす。


(岩崎弥太郎。三菱財閥の創業者。東洋の鶴田塾で学ぶ。)

東洋は結局、土佐に戻って隠居することになりました。そして長浜に鶴田塾(少林塾)を開講します。後藤象二郎や三菱の創始者・岩崎弥太郎など、門下生には後年活躍する者も多くいました。「新おこぜ組」と呼ばれ、後の土佐や日本の改革に尽くした人たちでした。

自由民権運動の板垣退助も指導したそうです。ただ、東洋は改革攘夷派、板垣は尊王攘夷派で意見の違いがありました。そのため、正式な門下生とはなっていません。

1858年、容堂は東洋を復職させます。再び、東洋の改革が始まります。自分が指導した門下生を要職に据えたり、外国視察をさせたり、精力的に藩のポテンシャルを上げることに励みます。当時は欧米がどんどんと日本に触手を伸ばしていた時代。藩の強力化なくして、諸外国に太刀打ちできないと容堂は考えたのです。

攘夷の考えだった東洋ですが、やがて外国の強さを認識するに至り、公武合体支持者へと変わってゆきます。朝廷と幕府が一体となり、日本を一枚岩にするべきだと考えたのです。しかし、この宗旨替えが土佐の尊王攘夷派との対立となってゆくのです。

 

スポンサーリンク

 

土佐勤王党に暗殺される。背景には、武市半平太との対立。

(高知駅前の三志士像。左から半平太、龍馬、中岡慎太郎。提供:フォトック)

東洋の考えは、土佐勤王党の武市半平太の怒りを買うことになります。武市の考えは「土佐藩は山内容堂以下家臣が一致団結して天皇を助け、偉人を打ち倒す」。東洋の公武合体は受け入れられないものでした。

武市は東洋の暗殺のため、勤王党のメンバーでいくつかの暗殺隊を作ります。そして1862年4月8日、運命の日。そのときの藩主・山内豊範へ講義したその帰り道。夜10時頃、雨の降る中で勤王党の暗殺隊に襲撃され、命を落とします。享年47。現場には今「吉田東洋記念之地」の石碑が建っています。

ちなみに、豊範への講義は本能寺の変についてだったそうです。その帰り道に暗殺されるとは皮肉な話ですね。その後、武市半平太が土佐を牛耳ってゆくことになるのです。

 

スポンサーリンク