(提供:写真AC)

龍馬と同時期に土佐脱藩をした吉村虎太郎は、龍馬とはまったく別な方向から日本を変えようとしました。あまりに強い虎太郎の情熱は、やがて天誅という暴挙へと変わり、大和の地で果てるまで激闘が続くことになります。

 

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尊王攘夷の急先鋒・吉村寅太郎とは?

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武市半平太の土佐勤王党にいち早く加盟した吉村虎太郎は、尊王攘夷の念が非常に強い正義漢でした。半平太、龍馬、中岡慎太郎と、土佐攘夷志士四天王に数えられています。

半平太の使いで久坂玄瑞のもとへ赴き、その後筑前の平野国臣から薩摩の島津久光が挙兵する計画を聞きます。虎太郎は「土佐勤王党も参加するべき」と訴えますが、半平太は拒否。虎太郎は上方にいる、久光に味方しようとする過激派グループに加わるために脱藩までします。

「思いついたら即行動」の虎太郎らしい行動です。

ところが挙兵はグループの勝手な思い込みで、久光は公武合体派でした。これに不満なメンバーたちは反乱を企てます。寺田屋での会合中、動きを知った久光の命を受けた薩摩藩士に踏み込まれ、虎太郎も捕まってしまいます。

土佐に送り返されて、8カ月の禁獄を経て釈放。その間に攘夷の風が全国的に吹き荒れており、情熱家の虎太郎も再び攘夷活動を精力的に行うようになりました。長州の外国船砲撃に加わっていた侍従の中山忠光の京都脱出を手引きしたのが、虎太郎です。

 

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天誅組を結成。中村忠光が天誅組の変を起こす。

さて、時の孝明天皇が大和の神武天皇陵を参拝し、攘夷親征を宣誓することになりました。この大和行幸は攘夷派・三条実美の計画です。

大和入りの先駆けとして中村忠光を筆頭に、虎太郎ら数十人が行動し、決意を誓い合いました。これが後に天誅組と呼ばれるようになります。

しかし、過激な攘夷派を京都から一掃する八月十八日の変が起こり、大和行幸も取りやめられると、天誅組は大和で孤立する形となり、ついに決起。

世に言う「天誅組の変」です。

意気軒昂な天誅組は陣屋や小大名の居城を次々と襲撃します。国家に対する表立った反乱としては、おそらく嚆矢(こうし)になるものだったでしょう。

天誅組は現在の奈良県南部を舞台に、一ヶ月以上戦いますが、多勢に無勢。士気は高くても統制されてない天誅組が、幕府軍に敵うわけはありません。大将の中村忠光は脱走して大阪へ逃げ、他の隊員も討ち取られるか、捕縛されるかして、天誅組は壊滅します。

虎太郎は戦闘中に味方の弾が当たって負った傷が悪化し、駕籠に乗せられて集団からは遅れて行動していました。しかし、幕府の兵に見つかり、射殺されたのです。享年27だったといいます。

カッコ良すぎる辞世の句。

吉野山、風に乱るる、もみじ葉は、我が打つ太刀の、血煙と見よ。

これが虎太郎の辞世の句です。「武士らしく切腹させてくれ」と懇願した虎太郎ですが、聞き入れてもらえませんでした。反乱者にかける情はないというところでしょうか。

句は「この吉野山に揺れる無数の紅葉は、俺の刀がお前らを斬った血だ」といった意味ですかね。死に面しても情熱がほとばしっていた、虎太郎の生き様がよく表れた句だと思います。

 

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