(提供:写真AC)

前野長康は、秀吉が信長に「猿」と呼ばれ使われていた頃から、蜂須賀小六(正勝)とともに秀吉に仕えていた古参でした。

もっとも信頼できる男であったはずが、秀吉が天下人となり、老いて疑心暗鬼に苛まれるようになると、謀反の疑いの目が長康にまで向けられます。

 

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木下藤吉郎の「墨俣一夜城」築城に協力。秀吉の直臣に取り立てられる。

(墨俣城 提供:写真AC)

前野長康は、本名を坪内光景といいます。この坪内家は、木曽川一帯に勢力を持っていた「川並衆」と呼ばれたひとつでした。

1566年、信長が美濃攻略のために築城しようとするも、柴田勝家、佐久間信盛が相次いで失敗。その後、秀吉が一夜にして建てたという時代劇でもお馴染の墨俣一夜城の件で、川並衆だった義兄弟の蜂須賀小六と一緒に築城を手伝い、この功により9歳年下だった秀吉の家臣になったと伝えられています。

ただし、墨俣一夜城の話自体が不明点も多く、けっこう無茶なストーリーなので事実関係は定かではありません。ちなみに、信長公記には「墨俣城は以前からあったよ」と書かれています。話、盛りすぎですね。

ともかく、長康が秀吉には古くから仕えていたことは間違いないようです。

 

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「賎ヶ岳の戦い」で奮戦。播磨国三木の城主に。その後も出世街道を順調に進む。

(提供:写真AC)

とりあえず知られた歴史の流れで、墨俣一夜城で名を挙げた秀吉は出世し、本能寺の変後で明智光秀を倒し、天下人としての道を歩み始めます。

清須会議で秀吉に主導権を獲られた柴田勝家が反乱すると、中国地方の毛利軍を小六に抑えさせ、長康は秀吉と一緒に勝家討伐に向かいます。世に言う賤ヶ岳の戦いです。

なんといっても加藤清正や福島正則ら「七本槍」の活躍が知られている合戦ですが、長康も地道に戦局を有利にするよう働きました。

立て続けに、織田信雄・徳川家康と戦った小牧・長久手の戦い、長曾我部元親を攻めた四国征伐でも武功を挙げた長康は播磨・但馬に5万3千石を与えられ、三木城主となり、さらに聚楽第の造営、小田原征伐、文禄の役での活躍で、11万石にまで加増されます。

派手さはなくても、堅実に上昇していった人生です。

秀吉に謀反の疑いをかけられ、切腹することに。

(秀吉像 提供:写真AC)

秀吉は跡継ぎにと決めていた鶴松を失い、養子の秀次を後継者にするため、関白職を継がせます。長康は秀次の家老に就任します。

この点からも秀吉の長康に対する信頼度が窺えます。ところが、直後に淀君が秀頼を産み、世継ぎ問題がきな臭くなってきました。秀次と淀君の冷戦、間で悩む秀吉は自分の種の秀頼が可愛いというわけで、家庭内問題です。

そして突然に、秀次が反秀吉一派と謀議をしている疑惑が出てくるのです。

誓紙まで提出して無罪を訴える秀次。しかし、待っていたのは家族郎党皆殺しの運命でした。秀次の家老・長康は弁護に回ります。それでも聞き入れられず、長康まで連座して罪を問われてしまうのです。

 

この頃は秀吉も少々おかしくなっており、頑迷が目立っていたようです。

長年従った長康でさえも敵に見えたのかもしれません。長康は自害を命じられます。享年68。これら一連の殺害は今も秀吉の忌むべき悪行として知られており、自身もその3年後に失禁までするようになって亡くなっています。

 

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