(提供:写真AC)

政教分離の現代とは違い、封建時代は政治と宗教が密接な関係でした。寺社が歴史とよく絡んでいます。僧侶の身から織田家に従い、秀吉にも重んじられたのが前田玄以です。僧侶らしい寛大さで政治を行い、五奉行の一人にまでのし上がったのです。

 

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信長に請われて家臣となる。「本能寺の変」では、三法師を京都から逃して活躍。

(本能寺跡 提供:写真AC)

1539年、美濃で生まれた前田玄以は、比叡山の僧であったとも、尾張小松原寺の重職であったともいわれています。確たることは不明ですが、織田信長に認められて還俗し、信忠の補佐役になったと伝わっています。

正室は信長のブレーン村井貞勝の娘で、1576年に嫡男が生まれていることから、それ以前には信長家臣となっていたようです。

1582年の本能寺の変でも、玄以は信忠と一緒にいました。明智光秀の謀反を貞勝に教えられ、二条城で押し寄せた光秀軍と戦っています。

信忠は玄以に「三法師を連れて逃げろ」と命じます。幼子を預けるからには、それほど信頼を得ていたのでしょう。

玄以は三法師と守りながら、どうにか京都を脱出。美濃の岐阜城まで逃亡し、三法師を無事に清州城まで送り届けました。

その後、秀吉の家臣となって、丹波亀山城主に。豊臣政権で京都所司代、五奉行に任じられる。


(亀山城石垣 提供:写真AC)

信長の死後は、その次男・信雄に仕えた玄以。

僧侶の過去があったためなのか、京都の寺社や公家ともパイプがあったらしく、そこを買われて京都所司代に任命されました。

秀吉の勢力が強くなり、京都にまで影響力が大きくなると、秀吉に仕えて所司代も引き続き任されました。秀吉と朝廷の交渉役となり、後陽成天皇が聚楽第行幸したときには奉行として働きました。

 

玄以はキリスト教弾圧を行うも、後に理解を示し、キリシタンを保護しています。また玄以が所司代をしていた間、融和的な方針を貫き、京の人は一人も処刑されなかったそうです。

蒲生氏郷が病気のときは9人の医師が交代制で24時間診るという輪番診療のアイデアを提案。検使として立ち会い、その報告も玄以が細かくしています。こうした精神は宗教家らしいですね。

この愛で地球を救っちゃう感じが秀吉にも称賛されて、1595年には5万石の丹波亀山城の主となります。さらに、秀吉が五奉行を設けると玄以は宗教担当の奉行に任じられています。

今でいうなら文部科学大臣とか文化庁長官になるでしょうか。
たいした出世です。

 

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関ヶ原の戦い、病気を理由に不参加。

(関ヶ原古戦場 提供:写真AC)

秀吉も世を去り、1600年に徳川家康と石田三成が関ケ原で激突するわけですが、ここで玄以は奇妙な動きを見せます。

家康が会津の上杉を征伐に行くのに玄以は反対し、三成の西軍につくと弾劾状に署名するのですが、なぜか三成の挙兵を家康に内通もしているのです。

 

結局、関ケ原でも「私はちょっと病気ですし、秀頼様を守って大坂城に残りますわ」と出陣していません。ただ、玄以の三男・茂勝は西軍で活躍したので、家康の勝利後には相当のペナルティも覚悟しなければなりません。

しかし、玄以は丹波亀山にそのまま置かれ、亀山藩初代藩主となりました。これは玄以が朝廷と繋がっていたため、家康が利用できると考えたからだと推測されています。その証拠に玄以はお咎めもなく1602年に63歳で死去。

茂勝が跡を継ぐも、まるで用がなくなったように数年後には関ケ原を理由に減封され島流しになっているのです。

 

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