(別所長治公像 提供:神戸観光壁紙写真集

播磨の名門であった別所家。父親の死によって若くしてその主となったのが別所長治です。織田信長にも早くに従ったのですが、名門のプライドは捨てきれずに反抗。わずか23年の生涯の最後の2年は飢餓との戦いとなったのです。

 

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1578年、中国攻略の総大将に羽柴秀吉が任命。「なぜ、あの猿が?」長治は信長の人事に激怒!

(羽柴秀吉像 提供:写真AC)

畿内の三吉家と仲が悪かった播磨・別所家。その三好家と敵対関係にある尾張・織田に、長治が従ったのは当然だったでしょう。

長治も信長に敬意を持って接していました。

播磨の西で毛利軍が力をつけ、信長にとって目障りとなったため、中国地方の制圧に向かうのですが、総大将に選ばれたのは羽柴(豊臣)秀吉でした。これに長治はカンカンとなります。

「大将が播磨の名門である俺様ではなく、あの百姓あがりの猿野郎か!」と言ったかどうかはわかりませんが、名門のプライドは傷つけられたようです。

まあ、今でもこういう面倒臭い奴はいますね。こうなるとこの手のタイプは絶対に引きません。一転、播磨が反織田の大勢力となってしまいました。

長治、三木城に籠城する。秀吉は補給路を断つ。

(三木城跡の上の丸公園 左は天守台・右は鎮守 提供:神戸観光壁紙写真集

長治の正室は、丹波で明智光秀を背後からだまし討ちした波多野秀治の妹(娘という説も)です。「義兄さんがやるなら」というわけで、長治も織田との戦いを決意。播磨周辺の勢力も従わせ、信長を手こずらせるのです。

三木城(現・三木市)に立て籠もり、信長の命を受けた秀吉に対して徹底抗戦です。三木城は何度も戦の舞台となっており、その度に守りを強固に改造してきたけっこうな要塞となっていました。

さすが秀吉も「容易には落とせんな~」と考えたのでしょう。場内には兵士だけでなく、その家族もいたので、食料が必要でした。秀吉は補給路を絶ってしまったのです。「三木のほし殺し」と呼ばれる兵糧攻めのスタートです。こうして三木城では飢餓に苦しむことになります。

 

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浅野に懇願。「切腹するから、部下を助けて」。

(三木城復元図 提供:神戸観光写真集

苦しむ長治。しかし、名門の強運なのか、時代背景の妙なのか、丹波の反乱や毛利の攻撃、信長家臣の荒木村重の謀反が起こり、振り回された織田軍の隙を突いて、どうにか細々と補給路を保っていたのです。

とは申せ飢餓が劇的に改善されるわけもなく、長治は討って出て活路を求めることにしました。敵は織田の精鋭で、これは失敗に終わります。

城内では牛や馬を食べ尽し、ヘビ、虫、ネズミ、あげくは土壁に使われている藁まで食べなくてはならなくなり、長治もついに観念します。

秀吉の腹心・浅野長政に「自分は切腹する。部下は助けてやって欲しい」と手紙を送り、秀吉も了解しました。2年にも渡る兵糧攻めがここに終わったのです。妻子を刺し殺し、弟の友之と友に自害。

 

最後の夜、長治は兵たちを労う酒宴を催します。秀吉が末期の酒として、酒肴と一緒に送ってやったのです。久しぶりのまともな食事、みんなはどんな思いで食べたのでしょうね。

翌日、長治の正室・照子はまだ2歳の幼児を抱き、その胸に懐刀を刺して殺します。長治も他の子供たちを刺して、妻の死を見届けた後で自分も腹を切りました。若干23歳でした。このとき、弟の友之、治定らも一緒に自刃。

辞世の句は「今はただ恨みもあらじ諸人の命に代わる我が身と思えば」
「みんなをこの命で助けられるなら今はもう恨みもない」ということです。

プライドの高い、面倒臭そうな若殿ですが、この辺は戦国の漢であったといえるでしょう。

 

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