(松下村塾 提供:写真AC)

1857年、長州藩の江戸藩邸で下役として勤務し、事務仕事をこなし使い走りとして萩と江戸を往復しながら厳しい家計を支えていた入江九一は、吉田松陰から主催する松下村塾へ勧誘されていました。

翌年、江戸藩邸の使いとして萩に戻っていた入江九一は、松下村塾にいる吉田松陰を訪ねました。安政5年7月のことです。

入江九一は吉田松陰の知遇を得ることになりますが、使いとして滞在しているためすぐに江戸へ戻らなければならず、吉田松陰は送辞を贈ります。

「吾れの甚だ杉蔵(入江九一)に貴ぶ所のものは、その憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり」

現代語訳にすると「私が入江九一について、最も貴いと思うところは、天下国家を切実に憂いていることと、そのために必要な策を講じていることで、これは私の及ばないところである」という内容です。

初対面でありながら、たった数日の滞在で、吉田松陰は入江九一を絶賛しています。4か月後、入江九一はついに松下村塾に入塾、高杉晋作、久坂玄端、吉田稔麿と並び「松下村塾の四天王」と称されるまでになります。

吉田松陰に高く評価された入江九一は、どのような人物だったのでしょう。
今回は松下村塾四天王のひとり、入江九一について解説します。

 

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生い立ちから松下村塾入塾まで。

(山口県「入江九一誕生の地」 筆者撮影)

 

現在の山口県萩市土原に、入江九一誕生の地と刻まれた碑が建っています。
1838年、この場所で入江九一は誕生します。

入江家は足軽の身分のため、生活がとても厳しく、入江九一は家計を支えるために13歳で藩の下役として働き始めます。

父親の死去にともない、20歳で家督を継いだ入江九一は、長州藩の江戸藩邸に勤務するようになり、萩と江戸を往復するようになりました。

 

そんな入江九一には、5歳年下の弟、野村和作(わさく)がいました。

兄弟の名字が違うのは、もともとは野村姓でしたが、両親の代になって入江姓を継いだため、長男の九一が入江姓を継ぎ、次男の和作が野村姓を名乗っていたのです。

この弟の野村和作が松下村塾の塾生で、入江九一の人物を伝えられた吉田松陰は、入江九一を松下村塾へ勧誘するようになります。入江家の長男として、一家の家計を支える立場にある入江九一は、当初は入塾を断ります。

しかし、度重なる勧誘の末、入江九一は松下村塾を訪ねることにしました。初めて直接に吉田松陰と対面した入江九一は、数日ばかりの滞在期間中に入塾を決めました。

 

正式に松下村塾に入塾したのはこの4か月後のことですが、江戸藩邸へ戻った入江九一は、来島又兵衛など江戸在住の松陰門下生と交流、プライベートでも行動を共にしました。

この時点で、すでに門下生のポジションにあったとみられます。

安政5年、朝廷の勅許を得ずに幕府が日米通商条約を締結、これに憤慨した吉田松陰は上洛する老中の襲撃を企てます。しかし計画が長州藩当局に露呈し、吉田松陰は長州の野山獄に投獄されてしまいます。

入江九一が松下村塾に入塾して、わずか1ヶ月後のことでした。

師・吉田松陰との強い信頼関係。

(吉田松陰像 提供:写真AC)

松下村塾内はにわかに剣呑とした空気となっていました。

1858年、入江九一が入塾して1ヶ月、松下村塾を主宰する吉田松陰は、朝廷の勅許なしに日米通商条約を締結したことに憤慨。倒幕を表明して、幕府老中の襲撃計画を企てたのですが、弟子たちの間で賛否両論分かれたのです。

松下村塾の四天王、高杉晋作、久坂玄端、吉田稔麿など、塾生の過半数が吉田松陰の過激な計画に反対しました。その中で、入江九一、野村和作兄弟だけが老中襲撃計画に賛同して、血判状に判を捺しました。

吉田松陰は入江九一と野村和作をこう評価します。

「久坂君たちは優秀だが度胸がない。しかし君たち兄弟だけは、国のために死ぬことができる男児である」

 

しかし、入江九一と野村和作が老中襲撃計画を実行することはありませんでした。計画が長州藩当局に漏洩し、首謀者である吉田松陰が捕縛、投獄されたからです。

吉田松陰が投獄されると、入江九一は吉田稔麿、品川弥次郎とともに周布政之助を訪ね、猛然と吉田松陰投獄に対して抗議します。

抗議を行った3人は、長州藩から謹慎処分を言い渡されます。

 

■獄中でも策を巡らす吉田松陰。

(提供:写真AC)

一方、獄中の吉田松陰は「伏見要駕策」を企てます。

これは参勤交代で江戸に向かう長州藩主・毛利敬親の大名行列を京都の伏見で止め、朝廷に攘夷の約束を取り付けるという無謀な計画でした。

獄中にあった吉田松陰ですが、面会などは比較的自由にできました。

差し入れや手紙の受け渡しなども可能であったため、吉田松陰は獄中から弟子たちに様々な指示を出します。しかし、四天王を筆頭に、多くの塾生たちが「時期尚早」として協力を見送りました。

この伏見要駕策にも、入江九一・野村和作兄弟だけは協力を表明します。
入江九一が自宅謹慎中だったため、実行に踏み切ったのは野村和作でした。

入江家はとても貧しく、京都までの旅費を工面するため、家財道具を売却しました。こうして吉田松陰の密命のもと、京都へ向かった野村和作でしたが、計画を幕府に察知され捕縛されてしまいます。

入江九一は野村和作ともども、岩倉獄に投獄されました。

 

■獄中に届いた吉田松陰からの手紙

計画は失敗に終わりましたが、獄中の兄弟に吉田松陰から手紙が届きます。

あなたたちが計画を実行してくれたおかげで、事はならずとも長州に忠義の心があることは天下に知れ渡ることとなりました。感謝に堪えませんと、感謝の気持ちが書かれていました。

獄中で知らされた吉田松陰の江戸送還の報に、吉田松陰の処刑が遠からず行われることを察した入江九一は、すぐに吉田松陰へ手紙を書きました。

先生が江戸に送還されることは、天命かもしれませんが、長州藩の運命はおろか、日本の命運さえこれで決まったようなものでしょう。

先生の江戸送還を、幕府に直諫する好機だと考えている者もあると聞いております。幕府の役人は君子にあらず、姦人に違いありません。

そして、必ず吉田松陰の意思を継ぐことを誓いました。吉田松陰は入江九一の手紙に涙を流し、品川弥次郎に手紙の保管を頼みました。また、入江九一もこの時の手紙を大切に保管しています。

1859年11月21日、運命の日が訪れます。
安政の大獄の最後の犠牲者として、吉田松陰は処刑されました。

 

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吉田松陰の死後、尊王攘夷活動に奔走。

(提供:写真AC)

岩倉獄から入江九一が釈放されたのは、吉田松陰の処刑から半年後のこと。入江兄弟は、松下村塾の門下生という経歴から、士分に取り立てられます。長州藩では、藩士と足軽の間には、はっきりと身分の差があったのです。

吉田松陰の指示に従い、入江九一は久坂玄端のもとで勉学を教わりながら、京阪地方に潜入するなど、尊王攘夷活動に奔走します。

攘夷戦を視野に入れ、久坂玄端が「光明寺党」を結成します。
光明寺党は久坂玄端が京阪地方にいた尊王攘夷派の志士を集めて長州で結成した、攘夷の急先鋒となる部隊でした。

光明寺党に参加した入江九一は、光明寺党の一員として庚申丸に乗船、長州藩外国船砲撃事件で外国船に砲撃を加えました。

下関戦争で長州藩が完敗したことをうけ、長州藩に呼び戻された高杉晋作が奇兵隊の創設を打ち出します。入江九一は奇兵隊の創設に協力し、後に参謀に就任。入江九一は、しっかりと吉田松陰の志を継いでいたのです。

入江九一の最期。天王山で自刃する。

(蛤御門 提供:写真AC)

八月十八日の政変で京都を追放された長州藩は、起死回生を図り、挙兵して上洛します。のちに、禁門の変、あるいは蛤御門の変と呼ばれる騒動です。

1864年7月、禁門の変に参加した入江九一は、久坂玄端とともに天王山に布陣します。浪士隊を率いて堺町御門を突破して鷹司邸に立てこもります。

久坂玄端が自刀した後、入江九一も敵の槍を顔面に受けて目を負傷、その場で自刃して命を落としました。明治維新を迎えることなく、禁門の変に散った入江九一の志は、弟の野村和作――のちの野村靖に引き継がれます。

野村靖は、第二次長州征討で活躍、明治維新後は岩倉使節団の一員として渡欧、第二次伊藤内閣で内務大臣に就任しました。晩年も富美宮・泰宮両内親王の養育掛長を務め、68歳で亡くなります。

松下村塾最後の塾生である入江九一は、門下生の多くが吉田松陰の無謀な計画に参加を拒否する中、入江九一、そして弟の野村和作だけは、血判状にも判を捺し、危険を承知のうえで全面的に協力、吉田松陰にとって、もっとも頼もしく、信頼のおける門下生でした。

 

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