(長野市にある象山神社の佐久間象山 騎馬像 提供:写真AC)

吉田松陰や勝海舟までが師事を乞うた大天才。傲慢不遜、上の身分相手でも遠慮しない嫌な奴。ペリー提督が威圧されたという風貌。面白いエピソードに事欠かない、魅力たっぷりの佐久間象山。その人物像に迫ります。

 

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オランダ語を2ヶ月でマスター!?驚愕の天才学者の素顔とは。

(提供:写真AC

信州松代生まれの佐久間象山は、幼い頃から儒学、易学、算術などで驚くような才能を開花させていました。江戸で朱子学を学び、山田方谷と「二傑」と称されました。さらに西洋知識を学び、大砲やガラス、カメラまで自作しました。日本初の電信実験を行い、天然痘ウイルスの開発に取り組むなど、ダビンチ並みの能力の持ち主といえるでしょう。

オランダ語も2ヶ月で覚えたという大天才だったと伝えられています。自らの書斎を海舟書屋と呼び、これが勝海舟の名の由来となっています。

自分の意見は絶対に曲げず、何度大砲作りに失敗しても「失敗するから成功がある」と不屈の精神を見せつける反面、家老から諭されても言うことを聞かない頑固者。たびたび問題を起こしています。

長身、長髯、坊主頭にくっきり二重の鋭い目で睥睨する象山は、人をよく不快にさせたようです。しかし、象山を高く買う人は多く、島津久光や山内容堂などの殿様から、坂本龍馬や桂小五郎のような志士にまで、一目置かれる存在だったのです。

 

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吉田松陰に連座して投獄されたことも。

(松陰神社 吉田松陰先生の像: 写真AC

1854年、門弟の吉田松陰から「ペリーの船に忍び込んで、密航したい」と相談され、松陰が失敗すると、象山も連帯責任で入獄させられました。

まあ、この人はたまに迷惑をかけられたほうがいい薬かもしれませんね。出獄後も長い蟄居(ちっきょ:自宅を閉門されて謹慎する)を余儀なくされます。

蟄居中も高杉晋作や久坂玄瑞、中岡慎太郎らが象山を訪ねてきています。西洋研究を続け、ますます開国の必要を感じていた象山は、一橋慶喜(15代将軍)に招かれ、京都へ向かい、洛中にいた14代将軍・家茂にも訴えます。将軍にもずけずけと物を言うあたり、象山らしいといえるでしょう。

自分の考えが間違っているわけはないという自信も持っていたようです。この行為が皮肉なことに、攘夷思想の長州志士、つまり自分が教えた松陰の弟子たちの怒りに触れることになるのです。

河上彦斎に暗殺される。しかし、本人が深く後悔。

命を狙われているのに象山はどこ吹く風。標的になっているのを知ったうえで、護衛もなしに京都の街をぶらぶらとしていました。狙っている側の長州の桂小五郎は「たいした肝っ玉だ。この男を殺すのは惜しい」と感心し、人を使って象山に注意したほどでした。

しかし、長州藩士・河上彦斎(げんさい)が襲撃を決行します。河上彦斎は「人斬り」と称され、新撰組の近藤勇さえ避けて通ると言われるほどでした。

ただ、河上彦斎は、暗殺後に象山の驚くべき能力を知り、斬ったことをひどく後悔したそうです。それ以降人を斬ることはなかったと伝えられているので、よほどのショックだったのでしょう。

象山は享年54。明治維新を成し遂げた英雄たちに大きな影響力を与えた男の、寂しい最後でした。

 

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