近江屋跡

京都の河原町通にあった土佐藩ご用達の醤油商・近江屋で坂本龍馬が暗殺されたのは、1867年12月10日、大政奉還からおよそ1ヶ月後のことでした。

坂本龍馬暗殺から150年――2017年、坂本龍馬最期の地をたずねます。

 

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近江屋のある河原町の歴史と現在。

祇園四条駅

河原町通は平安京東端、東京極大路と、豊臣秀吉が築いた京都を囲む土塁「御土居」の東辺である寺町通の外側にあります。豊臣秀吉の京都改造後に開通しました。鴨川の河原だったことが名前の由来だと言われています。
現在では、三条から四条を中心に、京都でも有数の繁華街となっています。

京阪電車「祇園四条駅」で下車し、四条通に出ると、アーケードが設けられた商店街になっています。八坂神社から続く四条通には、観光客をはじめたくさんの人で溢れています。

河原町のアーケード街

四条通を歩いて行くと、デパートやテナントビルが建ち並ぶ河原町通と交わります。河原町通には地元の人たちの姿も多く見られました。

鴨川方面から見て、河原町通の左斜線川の歩道を三条方面へ歩きます。テナントビルや飲食店が軒を連ねるアーケード街を5分ほど歩くと、坂本龍馬最期の地に到着します。

アーケード街の中に石碑と写真のパネルが建っていますが、気付かずに通り過ぎてしまうかもしれません。

 

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歴史好きのための「近江屋跡」観光案内。

近江屋全体

江戸末期、近江屋があった河原町通は、現在と変わらず、当時もとても賑やかな繁華街でした。商店や旅籠、藩邸などがひしめき、志士たちも多く隠れ住んでいました。

生活の利便性はもちろんですが、志士たちは河原町なら人混みに紛れることができると考えていたようです。

古地図と照らし合わせてみると、当時の河原町通は現在よりも道幅が狭く、近江屋自体は河原町通の車道上にあったようです。近江屋の入口も、現在、石碑が置かれている歩道の反対側だったようです。

近江屋の跡地には「坂本龍馬、中岡慎太郎、遭難之地」と書かれた石碑と、京都市による案内板、そして坂本龍馬の写真のパネルが設置されています。こじんまりとしたものですが、献花台も設けられています。

案内板には近江屋事件について説明が書かれています。縦書きの日本語の下に、英語・中国語・韓国語の表記もありました。

ちょうど立ち止まった外国人観光客が、案内板を読み「ジャパニーズ・サムライ!」と言いながら坂本龍馬のパネルの前で記念写真を撮っていました。

自由貿易、世界の海援隊を夢見ていた坂本龍馬は、この様子をうれしそうに見守っているかもしれません。

坂本龍馬暗殺の地をたずねて。

(提供:写真AC)

坂本龍馬が提示した船中八策により、土佐藩の後藤象二郎、山内容堂が動き出し、1867年10月14日、将軍徳川慶喜は大政奉還を実現させました。

寺田屋事件以降、坂本龍馬は海援隊の本部を置いていた材木問屋「酢屋」に滞在していました。土佐藩邸が近いことから、坂本龍馬が近江屋へ移ったのは暗殺の10日前のことでした。もっとも、坂本龍馬は堅苦しい役人が多い土佐藩邸があまり好きではなかったそうです。

 

■11月15日、坂本龍馬「運命の日」。

(提供:写真AC)

陸援隊隊長の中岡慎太郎が近江屋を訪ねて来ました。
大政奉還後の政局について、2人は激しく論じます。
午後八時、十津川郷士を名乗る男たちが近江屋を襲撃しました。
坂本龍馬はほぼ即死、中岡慎太郎も2日後に息を引き取りました。

現在では、襲撃犯は京都見廻り組と考えられていますが、果たして、見廻り組が暗殺を単独で行ったのでしょうか。依然として、見廻り組に暗殺の指示を出したであろう黒幕の存在は明らかになっていません。

坂本龍馬暗殺は、幕末最大のミステリーとさえ言われています。

 

■事件のあった午後8時、手を合わせて龍馬をしのぶ。

150年前、坂本龍馬と中岡慎太郎は、この近江屋で襲撃を受け、命を落としました。日没をむかえると、これから飲みに行くというサラリーマンや若者たちが連れ立って河原町通を歩いて行きます。看板に電飾がともり、河原町通はさらに賑やかさを増します。

近江屋跡の石像とパネルの前をたくさんの人が通り過ぎていく中、たまに足を止める人がいます。手を合わせる人も、写真を撮る人も、パネルを読む人もいました。近江屋が襲撃された午後8時、そっと手を合わせて、坂本龍馬をしのびました。

(写真:筆者撮影)

 

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