(提供:パブリックドメインQ)

1853年の黒船来航を機に開国へ踏み出した日本。その後、列強と条約を結ぶことになるのですが、「友達たくさんできました」とはなれません。当時の日本はなんといってもアジアの田舎。大国が平等に条約を結んでくれるわけもなく、小物扱いのひどいものでした。いわゆる「不平等条約」ですね。

江戸幕府の弱腰に怒り心頭のサムライたちが倒幕に立ち上がり、明治維新へと向かうことになるのですが、維新の立役者の一人でもある坂本龍馬と一緒に行動し、龍馬にも「これからの日本に必要なのはワシとコイツ二人だけ」と言わしめた男がいました。紀州生まれの陸奥宗光です。しかも奥方の亮子さんは社交界の華と呼ばれるほどの超美人。羨ましい限りです。

しかし、陸奥はなかなか世に出ることはできませんでした。明治になって政府は薩長土の維新雄藩がほとんど牛耳っており、紀州出の陸奥の出る幕がなかったという理由もありますが、本人もなかなか癖があったようで、才能はあるのにどうも協調性がないというか、まあ面倒臭いお人だったようです。神奈川県知事や大蔵省でいい仕事をしていたのですが、その後政府の転覆計画に加わって投獄されるなど、見事なゴーイングマイウェイぶりです。

 

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不平等条約改正の機運が高まる

(提供:写真AC)

さて、列強との不平等条約は多少の直しはあったものの、あまり変化もないまま明治の混乱期を迎えます。なにしろ世界観がガラリと変わったわけで、国民がついてゆけない。全国各地で不満分子が暴れるので、明治政府はそれらを抑えるだけで手いっぱいの状態。条約の改正は後回しにされていたのですね。そうした混乱が落ち着き、「条約どうにかしようぜ」の気運が高まり、陸奥の才能も脚光を浴び始めます。

釈放後、明治21年には駐米大使となりアメリカ、メキシコとの条約を改正、さらに日英間でも話をつけ、ドイツ、フランス、イタリアと立て続けに不平等条約を正してゆくことになります。陸奥は「カミソリ」と称されますが、その名に恥じぬ切れ味というところですかね。

 

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小村寿太郎の才能を見出す

(提供:写真AC)

そして陸奥の功績は外交調停の天才・小村寿太郎を見出したことも挙げられるでしょう。日清戦争後、小村は在朝鮮公使となり、ロシアのウェーバーと朝鮮の権利を調停。

ロシア通として日露戦争後のポーツマス条約を調印。外務大臣になってからはアメリカ・イギリスと協調し、主に東アジアでの日本の存在感を高めることに尽力しました。小村はずいぶん背が低かったそうで、よく「日本は小さいが強い」と外国でも言ったそうです。「小国と思ってなめるなよ」ということでしょう。なかなか勝気だったようですね。

ともあれ、陸奥宗光と小村寿太郎の活躍により、日本は自主権を取り戻し、一流国として世界に認められるようになってゆきました。

歴史の授業ではあまり触れられず、どこか地味な感じの二人で、大河ドラマの主役にもなれそうにありません。しかし、日本の近代化、世界の日本に貢献したことは間違いありません。現代の情けない外務省にも見習ってほしい二人です。

 

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