(提供:写真AC)

天下の三菱、その創業者として知られる岩崎弥太郎も幕末を駆け抜けた偉人です。商人ではありますが、土佐のために働き、やがては三菱へと育てた弥太郎のバイタリティーの源泉は、故郷での出会いにあったようです。

 

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地下浪人の家に生まれ、吉田東洋の私塾で学ぶ。

(岩崎弥太郎の生家 提供:写真AC)

弥太郎が生まれた岩崎家は地下浪人(じげろうにん)でした。岩崎家は長曾我部(ちょうそかべ)家に仕え、江戸時代に地域に溶け込んだ郷士の家系だったのですが、貧窮から郷士資格を売ってしまい、名前だけの武士(地下浪人)になっていたのです。

父親と庄屋が喧嘩をしたとき、商人が庄屋に味方して父親が投獄されると、奉行所の壁に「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と墨で書いたといいますから、不正に対する嫌悪感は相当持っていたようです。

弥太郎はこの罪で牢入りとなるも、これが人生の転機。世の中何があるかわかりません。同房の商人から商売のイロハを学ぶのです。出獄してからは吉田東洋の塾で、後藤象二郎らと机を並べます。さすがに大企業を築いた男は、意識高い系だったのです。

後藤象二郎に抜擢され、藩政改革を裏で支える。


(提供:写真AC)

塾長の吉田東洋が藩政に加わることになると、弥太郎も後藤も共に出資することになりました。ところが、海外事情を知るために長崎に行くも、花街で遊び回る弥太郎。あげく資金を失って官職を失うことに。こんな野放図なことをやらかす辺り、大物の片鱗を感じるエピソードです。

無職になって、土佐で農業をしていたところ、弥太郎の商才を知る後藤に推薦されて、土佐の産物を売ったり、武器を買ったりしていた開成館長崎商会の主任となりました。外国商人のグラバーやウォルシュ兄弟と取引し、藩の財政に大きく貢献。

その後、大阪の出張所へ異動して、林有造の土佐開成社(のちの九十九商会)に参加します。廻船業(かいせんぎょう)で大儲けするなど、その先見の明は素晴らしいものがあり、土佐の改革資金を潤していったのです。

 

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ついに三菱商会を興す。坂本龍馬との親交も。

(桂浜の坂本龍馬像 提供:写真AC)

九十九商会は1873年(明治6年)に三菱商会となります。ちなみに、現在も使用されている三菱のマーク・スリーダイヤは土佐山内家の家紋・三葉柏と、岩崎家の家紋・三階菱を組み合わせたものです。

政府の高官となっていた後藤象二郎から、藩ごとに違っていた貨幣を統一するために旧藩札を政府が買うことを聞き出しました。その後、藩札を大量購入して売って儲けたなど際どいこともしましたが、弥太郎のパワーにより三菱は大成長を遂げます。

余談ですが、長崎商会時代に龍馬の亀山社中の残務整理をしていたこともあり、龍馬とも親しかったそうです。どちらも商魂たくましい人ですから、きっと名コンビだったに違いありません。

子孫は、民進党の木内議院。

名門岩崎家ですから、後世に数多くの政治家・著名人を輩出しています。現在、民進党に所属する木内孝胤(きうち たかたね)議員もその一人です。

やはり議員だった曽祖父の木内重四朗氏が、弥太郎の娘の磯路であり、祖父や父親も外交官を務めたエリート一族です。弥太郎の血は今も優秀な人材を生み出し続けているのですね。

 

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