(マッカーサー元帥像 提供:写真AC)

日本は太平洋戦争に敗北して連合国軍が日本を占領する時を迎えます。

占領した日本を統治する連合国軍の最高司令官ダグラス・マッカーサーは昭和天皇と会談します。会談はマッカーサーの思惑とは違う展開方向になって行くのです。

 

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マッカーサーを感動させた昭和天皇のお言葉。


(皇居 提供:写真AC)

1945年(昭和20年)8月30日にマッカーサーは日本占領軍の司令官として神奈川県の厚木に到着します。既に日本はアメリカなどの連合国へ降伏の意志を示していました。

東京にGHQ(連合国軍最高司令官司令部)を置いて占領統治の指揮をマッカーサーは行います。指揮する政策の中で戦犯追及があります。東条英機など日本の戦争指導者を戦争犯罪人として軍事裁判で裁くのです。

その戦犯として昭和天皇を裁くべきだと連合国の政府や世論がありました。

マッカーサーはそんな情勢の中で9月27日の昭和天皇と会談の時を迎えます。場所は港区にあるアメリカ大使館で天皇は皇居から大使館を訪れます。
マッカーサーは天皇は命乞いに来るものと思っていたようでした。

 

第一次世界大戦後に退位したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が亡命先のオランダに居た事で戦犯としての追及を逃れたような振る舞いをするのだと思っていたようです。ところが昭和天皇は違いました。

「全責任を負うものとして、私自身あなたを代表する諸国の採決に委ねるためにおたずねした」(「マッカーサー回想録」より)

命乞いでは無く自分に責任があり処遇を委ねると自ら言ったのです。この天皇の姿勢に感動したマッカーサーは戦犯として裁かないと決めたと言われます。

 

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会談の内容を聴いていた船山貞吉の証言。

(昭和天皇陵 提供:写真AC)

会談の場には通訳の奥村勝蔵が居ました。

奥村は天皇が自分自身の身柄を連合国へ委ねると言う発言について記録を残したり証言をした事はありません。

これは外務省の役人である奥村が天皇の発言の影響の大きさを考えて記録をしていなかったとも言われています。

この会談にはもう一人その場に居ました。大使館で勤務している船山貞吉と言う人です。

彼は会談中の部屋でも暖炉の薪をくべたりして出入りをしていました。その仕事中に船山は天皇が自らの命はどうでもいいからと言う意味の発言を聴いたと言われています。

真相が定かではないものの、会談で初めて天皇と接したマッカーサーは天皇への戦犯追及をしないと決めます。

代わりに会談の時に天皇とマッカーサーが並ぶ写真を撮らせます。姿勢を正す天皇に対して緩い姿勢で立つマッカーサーの姿は会談の二日後に新聞に載ります。この姿は日本が敗戦してアメリカに従うのだと日本人が受け入れざる得ないものとなりました。

会談はその後5年以上に渡り合計11回も行われました。1時間から2時間の会談では安全保障などの政治について話し合いました。マッカーサーは天皇を政治的に利用する一方で、信頼して尊敬する人物として見ていたのです。

 

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