(現在の長崎港 提供:写真AC)

1859年9月19日、日米通商修好条約によって4ヵ月前に開港されたばかりの長崎に、長身で端正な顔立ちをしたひとりの白人青年が到着しました。

スコットランド出身の青年の名は、トーマス・グラバー。
長崎の海風に、長めの頭髪が自然に波打ちます。

香港を拠点にするジャージン・マセソン商会という英国の貿易会社から派遣され、21歳で来日しました。

『住宅や建物は、それぞれの目的に応じて、完璧に整頓されていた。
家の中には埃など一つもなく清潔で、住民が食に困っている様子もない。町はどこまでも秩序だっていて、乞食の姿はなかった。』

『日本には愛想の良い綺麗な娘がたくさんいる』と以前から評判で、港町まで行くとそんな娘たちを見ることができて、大変魅了された。

『9月の長崎は、連日にわたって空がサファイア色に染まる。
ノアザミのむこうに、田園風景が美しく広がっている。
そして、21時を過ぎると、大半の人が飲んだくれていた』

来日直後のグラバー青年は、日本の第一印象をこのように語っています。

しかし、長崎を観光し、かわいい女の子に視線を奪われ、異国の美しい情景に感嘆する、ごく普通の商社勤務の青年は、幕末の政治的混乱に乗じビックビジネスを展開、倒幕運動を背景に武器を売買して、「死の商人」として暗躍するようになるのです。

はたして、死の商人と呼ばれたトーマス・グラバーとは何者だったのでしょうか。坂本龍馬との関係や、グラバーが明治維新に与えた影響、明治維新後の動向までご紹介します。

 

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トーマス・グラバーとは何者なのか?

(坂本龍馬のブーツ 提供:写真AC)

1838年、スコットランドのアバンティーンシャイアにトーマス・グラバーが誕生します。グラバーの父親は沿岸警備隊一等航海士を務めるかたわら、造船業を営んでいました。

1838年には、山形有朋や後藤象二郎、大隈重信など、同時代に活躍する人物が誕生しています。

スコットランドのギムナジウム(高等学校)を卒業後、1859年に上海に渡航したグラバーは、ジャージン・マセソン商会に入社します。

 

当時、世界屈指の商業都市だった上海で商業を学んだグラバーは、ジャージン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立しました。

設立当初は、日本製の生糸や茶を輸出して、石油や木綿などを輸入するという事業を展開しました。さらに製茶場や乗馬場の経営や不動産業にも乗り出しました。しかし、グラバー商会の実績は伸び悩みました。

新たな事業展開をグラバーが模索していたころ、朝廷では八月十八日の政変が勃発し、公武合体派によって京都から尊王攘夷派が追放されました。
グラバーはこのクーデターに、商会の活路を見出します。

 

■武器の売買に注目する。

この時期の長崎には、オールト、ウォルシュ、シキュート、クニフレルなど、欧米の貿易商人が活躍していました。

八月十八日の政変後、グラバーは薩摩藩や土佐藩、長州藩などと接触し、艦船や武器、弾薬などを売買しました。

武器の売買によって利益をあげたグラバーは、1860年代半ばには長崎の外国商館の最大手に上り詰めます。

武器商人となったグラバーは、日本人の海外渡航が禁じられていた中、秘密裏に長州藩士(伊藤博文、井上馨など)や薩摩藩士(五代友厚や森有礼など)の海外留学のため、渡航の援助を行うなど、「死の商人」として倒幕運動に加担していくようになります。

亀山社中にも武器を卸していた。坂本龍馬との関係は?

(近江屋跡の坂本龍馬の写真 本文とは無関係。 提供:写真AC)

現存する坂本龍馬の写真に、椅子に腰かけ背筋を伸ばして撮影された写真があります。座って撮影されたため、袴のすそからははっきりとブーツが見えています。実はこのブーツ、グラバーが贈ったものではないかと言われています。

実際、グラバー商会の本拠であったグラバー邸があった長崎の外国人居留地には、「トンプソン靴店」という西洋靴の専門店がありました。

もしかしたら坂本龍馬のブーツは、このトンプソン靴店で仕立てられたのかもしれません。お洒落だったと言われるグラバーならではのプレゼントです。

 

1864年、長崎に日本発の貿易会社「亀山社中」が設立される一年前——勝海舟に同行して坂本龍馬は長崎を訪れていました。

長崎の豪商「小曽根英四郎」は勝海舟とは旧知の仲で、二人をグラバーに紹介した、または長崎海軍伝習所で勝海舟と共に学んだ薩摩藩の五代友厚がグラバー邸で匿われたいたので訪問したさいに、グラバーと面識を持つことになったなど、グラバーと坂本龍馬の出会いには諸説ありますが、いずれも師である勝海舟がきっかけのようです。

当時は神戸海軍操練所で訓練生として学んでいた坂本龍馬でしたが、1865年3月には訓練生の中に池田屋事件に関与していた者がいたことで訓練所が閉鎖となり、勝海舟のはからいで一時は薩摩藩に身を寄せていた坂本龍馬は、5月に薩摩藩の援助を受けて亀山社中を立ち上げます。

 

亀山社中は日本初の貿易会社であると同時に、有事には海軍として活躍するという組織でした。メンバーも神戸海軍操練所の出身です。

亀山社中は設立後、グラバー商会からミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺、さらにイギリス製蒸気軍艦ユニオン号の購入を行います。

グラバー商会を通じて購入された兵器の総額は92400両、現在の170億円に相当する大きな買い付けでしたが、これには坂本龍馬が周旋した薩長同盟が関係しています。

 

■薩長同盟で亀山社中が果たした役割。

亀山社中の設立前後、坂本龍馬は薩摩藩と長州の同盟締結に向けて活動していました。

亀山社中での貿易・海運業を駆使して、亀山社中が薩摩藩名義で長州藩の武器や軍船を購入し、長州藩からは薩摩藩で不足している米を運ぶという坂本龍馬のアイデアで、薩長の距離が近づき同盟締結の実現にいたったのです。

長州征伐にそなえ、長州藩では軍備を整える必要がありましたが、第一次長州征伐後、長州藩は自藩名義で兵器や軍船を購入することができなくなっていました。そのため、薩摩藩の名義で海外から最新鋭の兵器を購入できることは、大きなメリットだったのです。

 

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グラバーが明治維新に与えた影響。倒幕の影の立役者だった。

(グラバー邸 提供:写真AC)

グラバー商会を経由して、亀山社中によって薩摩藩名義で購入された92400両という金額にのぼる最新鋭の武器で戦備を整えた長州藩は、第二次長州征伐で圧倒的に兵力では劣る不利な状況下で、幕府連合軍を打ち破ることに成功しました。

第二次長州征伐で全国に事実上の幕府の大敗が知れ渡ることになり、国内の諸勢力が次々に反幕府に転じ、時世は倒幕へ大きく傾きました。

「薩摩藩と長州藩の間にあった壁を壊してやった。これが私の1番の手柄だ」とグラバーが言ったように、薩長同盟締結の背景にあった、グラバー商会から薩摩藩名義で武器を購入し長州藩に受け渡すという坂本龍馬のアイデアは、グラバーとのビジネス関係があってこそのものでした。

薩長同盟の締結がなければ、第二次長州征伐で長州藩が幕府に勝利することはありませんでした。ともすると、この時点で明治維新が大幅に遅れた、あるいは倒幕さえできなかった可能性だってあったのです。

グラバーは武器商人として、倒幕運動をバックアップしました。
「江戸幕府に対抗した反逆者の中で、間違いないく私が一番のつわものだった」と、後年のグラバーは語っています。

まさにグラバーは、倒幕の陰の立役者だったのです。

明治維新後にグラバー商会は倒産。その後のグラバーさんは?

(グラバー邸の狛犬 キリンビールのロゴになっている。提供:写真AC)

明治政府ではグラバー商会のサポートで留学した伊藤博文や井上馨をはじめ、グラバーと交流があった多くの人物が活躍しました。

明治維新後、武器商人としてでは商売が成り立たず、グラバーは肥前藩から委託された高島炭鉱にイギリスから取り寄せた最新の機材を導入し、本格的な採掘を始めたり、長崎の小管に薩摩藩と共同で日本発の様式ドック(造船所)を建設し、これもイギリスから設備を輸入するなど、新たなビジネスを展開するようになります。

明治維新後も新政府の造幣寮の機械輸入を請け負うなど、明治政府から仕事を依頼されることも多かった一方、幕末の混乱期に諸藩へ貸し付けた資金の回収に苦労し、1870年にグラバー商会は倒産します。

 

■その後の成功談もすごい。

しかし、グラバー商会倒産後も、グラバーは日本にとどまり、高島炭鉱の経営者となり、官営事業払い下げで旧知の岩崎弥太郎が買収すると、その後は所長として経営に携わりました。

1885年以降は、三菱財閥の相談役になり、経営危機に直面していたスプリング・バレー・ブルワリーの経営再建を岩崎弥太郎に提案し、キリン麦酒(現在のキリンホールディングス)の基礎を築くなど、日本の近代化に大きく貢献しました。

晩年は東京で生活し、1908年には勲二等旭日重光章を授与され、その功績が認められ、73歳で亡くなりました。

キリンビールのロゴはグラバーがデザインしたものですが、諸説あるものの親しかった坂本龍馬をイメージしたとも言われており、現在でも私たちはスーパーのビール売り場など、身近なところで明治維新に大きな貢献をした二人の偉人に触れることができます。

 

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