(八坂神社 提供:写真AC)

京都の夏の風物詩、祇園祭は、幕末当時も現在と変わりなく執り行われていました。八坂神社は祇園祭の舞台となります。そのため、地元では「祇園さん」の愛称で親しまれています。656年創建の古社で、世界遺産にも登録されています。

この八坂神社の敷地から東には、坂本龍馬・中岡慎太郎の像がある円山公園が隣接しています。坂本龍馬・中岡慎太郎に会いに、八坂神社、そして円山公園をたずねます。

 

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幕末の大物たちも歩いた街。


(鴨川 提供:写真AC)

観光客で賑わう四条通を、河原町通、木屋町通、そして鴨川を越えると、四条通の東端に八坂神社の朱塗りの西楼門にたどり着きます。

鴨川沿いの京阪電車四条駅からも程近く、市バス祇園停留所からはすぐです。成人男性の3倍はゆうに越える「八坂神社」と刻まれた石碑は、その風化の様子から長い歴史を感じられます。

西楼門前の石段には、参拝客が行き交い、観光客が西楼門をバックにあちこちで写真を撮っています。西楼門をくぐり抜けると、石畳の参道の両端に、何軒か屋台が出ています。チョコバナナなど、お祭でよく見かけるようなメニューが並んでいます。

 

(提供:写真AC)

八坂神社は厄除け、病気平癒、家内安全、良縁成就、商売繁盛、開運成就など、様々なご利益があるといわれますが、ことに祇園祭の起源が、平安時代の疫病退散祈願にあることから、厄除けにご利益があるとされます。

八坂神社の界隈は河原町や木屋町が近く、さらに当時、京都最大の歓楽街であった祇園が目の前にあったため、活動・潜伏をする幕末の志士たち、あるいはそれを取り締まる為に新撰組が出入りしていました。新撰組はプライベートで、よく祇園で遊んでいたとも言われています。

 

また、桂小五郎を支え、維新後に妻として迎えられた幾松も、祇園の料亭の芸者でした。八坂神社西楼門前の東大路通を挟んだ向かいに、当時は祇園会所があり、池田屋事件の時に新撰組隊士たちがここに集合しました。

幕末の志士、新撰組隊士、そして彼らを支えた女性たちが、八坂神社の本殿を前に、こうして手を合わせていたのかもしれません。

八坂神社を参拝し、境内の東端と隣接する円山公園へ向かいます。この時、八坂神社本殿を向かいに、南楼門が見えます。南楼門からまっすぐ行くと、御陵衛士が屯所とした高台寺があります。

 

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円山公園内を歩く。

さて、広々とした円山公園の園内を歩いて行くと、八坂神社と打って変わって、市民たちが芝生の上で思い思いに過ごしています。

円山公園は京都市内有数の桜の名所とも知られていて、春になると園内には枝垂桜を中心に、680本もの桜が咲き誇ります。

小川治兵衛が手がけた見事な池泉回遊式庭園を通り過ぎます。石橋を渡ってしばらく歩くと、坂本龍馬・中岡慎太郎像が姿を現します。

 

台座部分を含めると、像の横にある街灯よりも高さがある、とても大きい石像です。正面から見て左手に坂本龍馬が立ち、右手に中岡慎太郎が膝を付いている格好です。

背が高かった坂本龍馬に対して、中岡慎太郎との身長差を目立たなくさせるために、このようなポーズになったとも言われています。この坂本龍馬・中岡慎太郎像は、市内、霊山にある2人の墓地にも、ミニチュア版が設置されています。

 

昭和11年、京都高知県人会有志により建立され、太平洋戦争中に銅不足を補う為に撤去されましたが、戦後には再建されました。今では高知県桂浜にある坂本龍馬像と同じくらい有名な像になりました。

坂本龍馬と中岡慎太郎は、八坂神社、祇園、そして2人が命を落とした近江屋のさらに先、京都市の西を見ています。しかし、坂本龍馬の視線は、さらに遠い先、大海原を眺めているのではないかと思えるほど、遥か先を見据えているのでした。

 

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