壬生菜や藍の若菜が田畑に顔を出す頃、洛外ののどかな里「壬生」に関東からぞろぞろと浪士の集団がやって来たのは、1863年の春のこと。

この浪士集団の中で、関東に戻らず京都に残り、京都守護職お預かりになったのが、後の新撰組です。浪士たちは前川邸を中心に、現在では一般公開もされている八木邸、現存しない南部邸、壬生寺前の新徳禅寺に分宿しました。

新撰組が前川邸を屯所として使用した2年間、8月18日の政変、局長・芹沢鴨の暗殺、池田屋事件、総長・山南敬助の切腹―様々な出来事が起こりました。新撰組の屯所だった前川邸には、多くの痕跡や逸話が残されています。

新撰組、2年の歴史を刻む、旧前川邸をたずねます。

 

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新撰組ファン必見のスポット。

京都駅烏丸口のバスターミナルから、市バス26、28系統のバスに乗車、壬生寺道バス停で降ります。バスの乗車時間は30分程度、四条通から坊城通へ。

2分ほど歩くと、浅葱色のダンダラに「誠」の文字の看板を見つけました。
新撰組の隊旗を掲げているのは、老舗の菓子店「幸福堂」(明治元年創業)。

きんつばが有名ですが、壬生ゆかりの菓子店ということで、誠饅頭も販売しています。旧前川邸は坊城通を挟んで、幸福堂の向かいにあります。

土・日・祝祭日に行くと、前川邸の長屋門に新撰組の隊旗が掲げられ、玄関と土間でオリジナルグッズの販売が行われています。

 

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しかし、平日に訪れると新撰組らしい目印が何一つなく、ともすると京都らしい古い屋敷と思うだけで通り過ぎてしまいそうです。

前川邸は様々な経緯を経て、現在は製袋業が営まれ、住居としても利用されています。そのため、平日は長屋門から玄関先までしか入れません。

しかし綾小路通に面した長屋門を前にすると、充分に当時を偲ぶことができます。壬生一帯に分宿していた新撰組は、出動となると、坊城通で拍子木を打ち鳴らして知らせたと言います。拍子木の音が鳴り響く中、慌しく支度をして、この長屋門を出て行く隊士たちが目に浮かびます。

 

長屋門を抜けると、旧前川邸の玄関です。玄関から中を見ることはできませんが、武家造りになっているそうです。現在は玄関先に、記念シールを作ることができる機械が設置されています。

新撰組が前川邸に入った当初は、周囲は板壁に囲われていましたが、襲撃に備えて土塀に改造、母屋のほぼ中央にあった納戸からは坊城通へ脱出する為の抜け道まで作られました。特に、池田屋事件後は勤皇派の報復に備え、会津藩から借り受けた大砲まで据え付けました。

新撰組の屯所となってから、家主の前川荘次郎一家は、早々に本家へ避難しています。前川邸での縁側では間者が突き殺され、土蔵では古高俊太郎への拷問が行われ、局中法度を破った隊士たちが相次いで切腹――幼い子供もいた前川荘次郎が、前川邸を出て行ったのも無理はありません。

 

新撰組の隊務・粛清が行われる前川邸ですが、同時に隊士たちの日常もありました。非番隊士は縁側で互いに月代を剃りあったり、集まって呉や将棋を楽しんだりしました。

若い隊士が日向ぼっこをしながら、子供たちをからかったり、狭い往来で沖田総司が子供たちと鬼ごっこをして走り回ったりしました。

 

長屋門を出て坊城通を見ると、幸福堂の店舗が目の前に見えます。
もう1度長屋門を振り返りました。

150年前、縦4尺、横3尺の緋羅紗の新撰組隊旗を、隊士たちは暇を見つけてはこの門前に持ち出して、火消しが纏を回すように旗を振り回し、これをまた他の隊士に投げ渡し、受け取った隊士が同じように振り回すのを、汗だくになって繰り返していたそうです。

宿坊通を四条通のバス停へ向かって歩きながら、幸福堂に掲げられた誠の旗印にその姿を重ねるのでした。

 

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