1865年4月5日、新撰組は壬生から西本願寺へ屯所を移します。

結成当時は30人ほどだった新撰組も、池田屋事件以降、新規入隊者が相次ぎ、200人を越える大所帯となりました。そのため、壬生の屯所では抱えきれず、七条堀川の西本願寺へ移ることになったのです。

浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺は、戦国時代に織田信長と争っていました。その時、毛利家が本願寺の兵糧を運びこんで支援しました。

 

江戸時代、この毛利家が長州藩を治めます。そのため、幕末当時、西本願寺は長州藩の尊皇攘夷派の志士たちを支援していました。新撰組の屯所移転には、このような理由もあったのです。

西本願寺に新撰組隊士たちが暮らした130年後、西本願寺は「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。

新撰組2番目の屯所、世界遺産西本願寺をたずねます。

 

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幕末ファン、西本願寺を訪ねる。

京都駅烏丸口のバスターミナルから、市バスに乗車します。
バスは塩小路通を右折し、片側3車線の幹線道路である堀川通を北上します。
バスに揺られること5分、堀川通沿いに西本願寺の壮大な建物が姿を現します。

西本願寺前でバスを降りると、そこは「重要文化財・阿弥陀堂門」の目の前でした。阿弥陀堂門は新撰組が寄宿した太鼓楼の傍にあります。新撰組隊士たちも、もしかしたら阿弥陀堂門をよく使っていたのかもしれません。

阿弥陀堂門から西本願寺へ入ると、国宝の阿弥陀堂が出迎えます。阿弥陀堂と合わせて、同じく国宝の御影堂は自由に参拝することができます。朝日が降り注ぐ阿弥陀堂、御影堂に、お経が響き渡っています。

境内には数羽の鳩とともに、早朝にもかかわらず参拝者の姿がちらほらと見られます。法衣をまとった子供たちが、列になって歩いて行く微笑ましい姿も見られました。

現在は姫路の亀山本徳寺に移築されていますが、この阿弥陀堂のすぐ横に建っていた北集会所も新撰組の屯所として使用されていました。当時、600畳あまりの広さがあったといいます。

新撰組が使用していた太鼓楼。

西本願寺で現存する新撰組が使用していた建物は太鼓楼のみとなります。
もう1度、阿弥陀堂門から堀川通へ出ます。西本願寺境内に沿って10mほど歩くと、太鼓楼の入口があります。西本願寺の東北の角地にあたります。

重要文化財の太鼓楼には入ることができませんが、「太鼓楼―新選組ゆかりの地―」と説明が書かれた看板が西本願寺によって掲げられています。
太鼓楼を正面から見上げると、想像以上に広さがあるように感じられます。

西本願寺を屯所とした新撰組は「新撰組本陣」の札を掲げました。
寺院内でありながら、牢屋や首斬り場まで設けられ、医師松本良順のすすめで養豚・養鶏まで始めます。

 

西本願寺の広い境内で大・小の砲撃の調練も行われました。これには僧侶をはじめ参拝客も恐怖を感じ、西本願寺は会津藩に交渉して調練は壬生寺で行われることになりました。

また、市中で口論になった熊本藩士を屯所へ連行すると、怒った熊本藩士80人が西本願寺へ押しかける騒動もありました。もちろん、新撰組の局中法度により、境内で切腹も行われていました。

西本願寺に屯所を構えてから2年後、新撰組は西本願寺からも近い不動堂村へ屯所を移すことになります。西本願寺がその費用を全額負担したことから、新撰組の屯所を抱えることになった西本願寺側の苦悩がうかがえます。

 

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新撰組隊士を弔った島田魁。

(提供:写真AC)

新撰組の古参メンバーであり、土方歳三に従い、函館戦争まで戦い抜いた島田魁は、終戦後京都で剣術道場を営み、後年に西本願寺の夜間警備員となりました。

島田魁は新選組隊士の菩提を弔うため念仏をかかさず、箱館戦争で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を、いつも懐に携えていました。

島田魁は14年間、西本願寺の夜間警備員を勤めますが、西本願寺巡回中に喘息の発作を起こし亡くなりました。

150年後の西本願寺、新撰組の隊士たちが寄宿した太鼓楼の前で、1度手を合わせました。もしかしたら島田魁も、夜間警備の途中、同じように手を合わせていたのかもしれません。

(写真撮影:筆者)

 

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